手越君と天声人語
急激に冷え込みましたね。みなさま、体調管理を万全に。
後期の水曜日の朝は講義があり、9時ごろには窓のそばに植えてある木にメジロ(おそらく)が行ったり来たりしています。しかし今日はいつもと違って9時30分ごろにメジロたちがやってきました。先週よりも朝が冷え込んだから、メジロたちも朝はゆっくりのスタートだったのかななどと思いながら講義を終えた私、じゃにすろです。
今回のタイトルの手越君とは、みなさまお察しの通りNEWSの手越君です。
手越君は僕の担当ではないのですが、その圧倒的歌唱力とバラエティでの活躍をみると、努力の人だな~といつも思わされます。
そういうこともあり、手越君のテレビや動画もよく見ます。
確か数年前、世界に行ってくる系の番組で、チャラい手越君を変えるために、現地で暮らす海外の方と一緒に生活をするという企画がありました。
そのため、手越君が持ってきたもの(携帯はもちろん、服もゲームもタブレットなど)をすべて没収するんです。タブレットでコンサートのチェックをしているという手越君、さすがです。
要するに現代の生活を離れて、現地の生活を体験するということですね。
そしてその生活を終えた手越君は、
「今の人ってさ、携帯を人間がいじってるんじゃなくて、携帯に人間がいじられてるんだよね」
とインタビューで答えます。なんともコペルニクス的転回ですよね。
このことに関しては、僕も普段よく感じていました。電車を使えば駅や電車内ではもうほとんどの人が小さな画面にくぎ付けです。もちろん、スマホで仕事をしている方が大勢だと思います。ひとたび街を歩けば歩きスマホはもちろんのこと、イヤホンで音楽を流しながら自転車に乗る人もいます。もっと驚きなのは、小さな子供を後ろに乗せているのにも関わらず、灯りもつけずにスマホをみながら自転車を運転している母親が僕の地域ではよく見られます。
それって人間のあるべき姿なのか?と疑問を抱かされます。
大昔から哲学者を悩ませてきた「人間のあるべき姿」や「善とはなにか」「理性とは」という問いに対して自分なりにちょっと模索したりもします。
そんなことを考えながら過ごしているわけですが、昨日は午後の予定が何もなかったので、急遽、電車で1時間ほど揺られながら祖父母に顔を見せに行きました。就職すればなかなか顔を見せることも難しくなりそうだったので。
僕の実家は日経新聞を購読しているのですが、祖父母は朝日新聞を購読しています。
久々に朝日新聞を手に取ったちょうどその日の天声人語には、筆者の方が映画館で映画を待っている時の体験から感じたこと、そこから日常風景へと展開し、文学への接触を経て結びとします。
というのも、筆者の方が映画館で上映時間を待っている時に、他にも5,6人の人が映画を待っていたそうです。そしてその全員がスマホではなく、本に目を落としていたのだそうです。それが筆者の方には何か懐かしい風景を抱かせ、今回の天声人語を執筆されるに至ったようです。
別に手越君も筆者の方も、そして僕自身も「スマホを見ることが悪いことだ」と言っているわけではありません。ただ、そうした日常にふと疑問を抱く瞬間があったのだと思います。僕自身、電車内でも軽い連絡や情報のチェックなどはしますし。
けど、画面上に流れる「文字」は、本に書かれるものとは「重み」が違うと思います。
特に中高生にとっては、SNS上のつながりがほとんど全てであると感じてしまいがちだと思います。そこで流れる「文字」は、平易な言葉で人を刺激しようと、誰にでも伝わりやすいものが使われます。中高生には、脳を停止してそんな平易な言葉に揺さぶられずに、自分がふと日常で感じることを、単純な一言で終わらせるのではなく、上手く伝えたいけど伝えられないみたいなもどかしさを経験してほしいなと、感じた日でした。
来週は何時頃にメジロたちはやってくるのかな~と、楽しみにしております。